nina1988の日記

東京に暮らすワーママが日々のことを綴る日記。主に美術館に行ったことなどの感想を綴ります。

ドライブマイカーを観てきた

先日、映画のドライブマイカーを観てきた。恥ずかしながら、カンヌ国際映画祭で色々賞を取って日本で再度話題になってからの鑑賞となった。題材となった村上春樹の、『女のいない男たち』は、家の本棚にきちんとあって既に読んでいたし、一応村上春樹の小説はほぼ全て読んでいて、わりとファンだと思っている身としては、この映画の存在に、話題になるまで気付かなかったというのは、ちょっと後ろめたいというか、こんなレベルじゃ自分のことを村上主義者とは言えないな、わりとファンすら怪しい、ちょっと好き、くらいしか言えないかも、と自戒した。こういう国際的な賞を取る前から、いい映画に気付けるくらいのアンテナを張って生きていきたいな~などと思う。(忙しくてなかなかそこまで気が回らないんだよね、、

 

映画については、色々思ったのだけれど、大きく分けると三つ。

村上春樹の『ドライブマイカー』が題材だけど、もはや別物

主人公の名前や職業など、設定を拝借し、全く別の作品に仕上げているという印象だった。村上春樹の主人公は、いつも何か大切なものや人を「喪失」していて、それを探す旅に出る過程で、新しい女性と出会い、その人と関係を結んだり離れたりし、そういう中で「喪失」したものを見つけたり、失ったことを受け入れて「再生」していくような話が、どの作品にも主題としてあると思うのだけれど、この『ドライブマイカー』も、まさしくその主題を引き受けながら、原作とは全く新しいドラマになっていると感じた。

 

2インターナショナルな出演者の効果

劇中劇では、演者の国籍がバラバラで(主にアジア)、彼らが言語を超えて作品を作り上げていく過程が丁寧に描かれていた。どうしてこんな設定なんだろう?と思ったが、これは二つの意図があるのかな?と感じた。一つ目、ソーニャ役の韓国手話で演劇に参加する女性の存在。彼女は「私にとって自分の言葉が通じないことは当たり前のこと」と話す。自分の言葉が通じない前提で生活するということは、英語すら通じない国に旅行したことがある人ならば、少しだけ想像できるのではないだろうか。自身の無力感。そういう言葉が担う役割を際立たせるため、多言語での劇を取り上げ、そこに「手話」を扱う彼女を潜り込ませたのではないだろうかと思った。

彼女が話すシーンでは、劇場が静寂に包まれる。この静寂は、常に耳にイヤホンを入れ、慌ただしく様々な情報をインプットし続ける現代社会を生きる我々に、その価値を思い出させてくれる。この静寂を体感するためにも、この映画は絶対に映画館で観るべきだと思う。

二つ目、これは商業的な意味合いということなのだが、ああいった芸術的な作風で、国際的な賞レースを狙いたい場合、もう純ドメスティックではその候補にすらなれない、ということがあるんじゃないのかなということだ。万引き家族やパラサイトは、芸術的というよりは、その内容が、社会的な格差を表現するという点において意義深く、賞獲得となったが、『ドライブマイカー』は、自己の喪失と再生という、極めて内省的な、作り方によっては、見せ場や派手なシーンを作りにくいテーマだと思う。だからこそ、インターナショナルな舞台設定を用意し、いろんな国々で鑑賞してもらいやすい映画にしたかったのかな、と。

 

3印象的なシーンや俳優さんについていくつか

・車の中で、亡くなった奥さんの声が入ったテープを聴き続ける様は、見ていて痛々しく、胸が締め付けられるような思いだった。もうやめなよ、忘れなよ、、と言ってやりたくなるほどに。そんな主人公が、運転手の女の子と関わる中で、彼女の痛みを知り、分かち合う雪のシーンは、長いせりふ回しのシーンで、そこが不自然にならない二人の演技力には脱帽した。背景の景色の美しさも相まって、二人の演技に説得力を持たせていた。

霧島れいかさんは、なぜこんなに美しいのか?考えさせられた。ノルウェイの森にも出演されていて、もう村上春樹のミューズになりつつあるのかな、と。この映画の製作や、配役に、村上春樹が口を出しているとは思えないような気がするのだけれど、じゃあ一体だれに、霧島さんにしましょう、と決定権があるのか、すごく気になってしまった。私自身は、石田ゆり子さんみたいなかわいい系より、ああいう妖艶な雰囲気で年を重ねていきたいのだけれど、一体どうしたらああなれるんだろう。だれか教えてください。(元が違うはさておき

岡田将生さんについて。原作では、高槻は「長身で顔立ちの良い、いわゆる二枚目の俳優だった。…特に演技が上手いわけではない。存在に味があるというのでもない」と表されており、要は「ルックスだけ、俳優としてはイマイチ」と表現(酷評?)されているわけである。その役に岡田将生岡田将生さんは、演技だって上手いと思うけれど、やはりお顔の美しさは、同年代の俳優さんの中でもピカイチだと思う。そんな彼が、「演技が上手いわけではない、存在に味があるわけではない」演技をしているのが、俳優魂がすごいというか、やっぱり演技が上手くない演技を出来るなんて演技上手いじゃん!と映画館で一人唸りたくなってしまった。ついつい、自分の写真を撮る一般人に殴りかかりにいっちゃう痛々しさとか、器の小ささを演じるって、威風堂々とした戦国武将を演じたりするよりムズイんじゃないのかなあと思う。

・映画の終盤、ソーニャと叔父さんの掛け合いのシーン。ソーニャが後ろから腕を回し、叔父さんの目の前で手話を繰り広げる場面は、音がないのに圧巻。いや、静寂だからこその圧巻。「生きていきましょうね。人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んでいきましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送ってきたか、それを残らず申し上げましょうね。すると神様は、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ、…まあ嬉しいと思わず声を上げるのよ。そして、現世での不幸せを、懐かしくほほえましく思い、ほっと息がつけるんだわ」

この長回しのセリフを、手話で静寂中で見ていると、音があることに慣れている私たちは、一種の不安を感じる。その不安が、さらに言葉を身体の奥底に染み込ませる作用が働くような感覚がある。ワーニャ叔父さんが書かれたのは、ロマノフ王朝が崩壊する寸前のロシア。不幸せのまま、奴隷のように死んでいく人が多かった時代のセリフは、

現代を生きる私たちにも、胸に突き刺さる何かがある。普遍的に人間の孤独や不安は消えない。しかし、演じることで、癒える何かがあるのかもと思わせてくれる。実際に、このワーニャ叔父さんのセリフと、家福の喪失はリンクする部分があり、家福自身が、ワーニャ叔父さんを演じることで、救われた部分があるのだろうと、希望を感じることが出来るラストになっていた。

・最後の最後の韓国のシーン

みさきを演じる三浦透子はラストシーンで韓国にいる。彼女はマスクをしていて「コロナ」である現在との連続性がさりげなく表現されている。ただの物語が、私たちの「いま」に、綺麗に接続されるのだ。頬の傷は消え、顔がよく見えるようになっていて、心なしか明るい表情で生活を営んでいる様子が描かれる。彼女もまた、母を「喪失」した痛みを抱えて生きていたが「再生」の兆しをみせて物語は終わる。村上春樹の主題を、綺麗に回収する形で物語は幕を閉じるのだ。

 

もう一回映画館で観たいのだけれど、上映時間が3時間程度あり、なかなか時間を捻出できないな~などと思うのでした。